言語としてのジャズについて漠然と考えたこと

ジャズの練習は、外国語学習に例えられることがある。
私も、両者には多くの共通点があると思う。
以下の文章は、そんなことについて漠然と考えたことを書いた。

「英語ができる」とはどんな状態か。
その人はネイティブかもしれない。外国語として英語を学んだかもしれない。
いずれにせよ、以下のような状態の人だとする。
その人は、英語で書かれた文章を読むことができ、言葉を聞き取ることができ、話すことができる。
つまり、英語でのコミュニケーションが可能である。

反対に、こんな人はどうだろう。
英語で書かれた文章を読むことができず、言葉を聞き取ることができず、話すことができない。
つまり、英語でのコミュニケーションは不可能である。
この人のことを「英語ができない」状態と考えることができる。

続いて「ジャズができる」という状態について考えてみる。
英語であげた各項目に対応するかたちで、
表現を調整してみると、以下のようになった。
その人は、ジャズの譜面を読むことができ、ジャズを聞き取ることができ、ジャズを演奏することができる。
その時、その人のことをジャズでのコミュニケーションが可能、といって良いのかもしれない。

この内、ジャズの譜面を読む、については英語とは事情が少し異なる。
英語で書かれた文章を読む、ということはあっても、
ジャズで書かれた譜面を読む、ということはないためだ。
ここでいうジャズは書かれる対象物であり、記述するためのツールではないからだ。

「ジャズができる」のなかに、ジャズを聞き取ることができる、が含まれていることに注意したい。
ここでも英語に照らして考えてみる。

「英語ができない」状態の人が、英語を聞いた場合、意味不明となる。
音声として聴覚的に感知することはできたとしても、そこで何が語られているかについては理解することができない。
しかし、英語を勉強していくに従って、つまり、単語や文法、慣用表現の学習や、発話練習などを重ねることによって、少しずつ英語を聞き取ることができるようになっていく。

同じように考えると、「ジャズができない」状態の人が、ジャズを聞いた場合、やはり意味不明となるはずだ。
音声として聴覚的に感知することはできたとしても、そこで何が演奏されているかを理解することはできない。音の塊としてしか感知できない。
それが、ジャズを勉強していくに従って、つまり、リックやパターン、アドリブ練習などを重ねることによって、少しずつジャズを聞き取ることができるようになっていく。

一般に、ジャズに限らず音楽では、必ずしも意味を問われない。
意味もわからず、理屈もわからなくとも、身体感覚として心地よいものは肯定されるからだ。
同じように、言語においても、
意味がわからずとも、視覚的、聴覚的な快/不快を味わうこともできるかもしれない。
それでも、そのようなかたちで言語を享受することは、音楽に比べると限定的だと言っていいと思う。

私がふと思ったのは、果たして自分は本当にジャズを聞けているのだろうか、ということだ。
そして、ジャズの練習をしようと思ったとき、いかにうまく弾けるかということばかりにとらわれて過ぎていたのではないか、ということだ。
練習をすればするほど、ジャズを聞くことができるようになる。
来年は、よりジャズを聞ける自分になりたい。

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